老いぼれエンジニアには隠す爪がない

この時代に老いぼれを見たら、「生き残り」と思え…!

近年の「自己肯定感」に関する議論のなんと浅いことか

やってきましたバズワード。「自己肯定感」の時間です。

何者にもとらわれず、自分自身を自分自身で認められる感覚。あー素晴らしい!

ま、いーんですけどね。そんな浅い議論で満足しちゃえるのはある意味幸せだと思うので。でも、俺は何事にも疑り深い人間なんでそんな程度で納得できないんですよな。

自己肯定感とは倫理観の否定だ!なんて身も蓋もない議論も目にしましたが、なんだか言葉遊びになっちゃってませんか?そもそもそこで言うところの「自己」って何を指しているの?

そんなの決まってんジャン、自分自身のことじゃん!と言うだろうな。たぶん。でも、俺的な感覚で言うと倫理観と言うのも自己の中にあるんだよ。

たとえば、人を殺してはいけない。法律にそう書いてあるから人を殺さないんじゃない。私が人を殺さないのは、自分自身が人を殺しちゃいけないって確信しているからだ。たとえ法律に殺していいと書いてあっても殺さない。

キリスト教では豚や牛は人間の食料として神が作りたもうた物だから、殺して食ってもいいと教えるそうだ。だけど、できるならば殺して食いたくはない。これも、法律や神様とは関係ない、おれ自身が勝手にそう確信していることだ。

キリスト様は鯨は食ってもいいとは言ってくれなかった。なので、日本人は野蛮な民族と言うことになっている。まったくもー。神様のケチ。

ここでもういっぺん問う。自己って、自分自身って、なんだ?

昔デカルトという人がいて、何もかも疑ってかかったそうだ。すべて幻想ではないのか?あらゆるものが疑いの対象となった。そして、「おぉ!この疑っている自分自身は疑えないじゃないか!」と思って、「われ思う、ゆえに我あり!」(コギト エルゴ スム だっけ?)と言う名言を吐いたと言うのは有名だけど、このデカルトって人は頭がよすぎて、逆にアホだね。

デカルトはこういっているわけだ。たとえばあなたの目の前にPCがある。しかしこのPCは幻想じゃないか?しかし幻想じゃないかと疑っている自分は確かにいるのだ。しかし。だ。目の前のPCが本当に幻想で、何もなかったとしよう。そうすると、「私」は何も「疑えなくなる」。なぜなら、疑う対象がないのだから。そうすると「疑う対象がなきゆえに、我なし」となる。逆に言うと、PCがそこにある。あるからこそ疑える。疑えるからこそ、「我あり」となる。つまり「我あるがゆえにPCもあり」が正しい結論である。

ま、仏教じゃ「諸法無我」とか「空」っつう超ありきたりな概念なわけだけど、当時西洋にはそういう概念が伝わってなかったんだから仕方ないっちゃー仕方ない。そのかなり後になってカール=グスタフ=ユングという心理学者が西洋人の心理を深く掘り下げていって、その「影」になっている東洋思想というものにたどり着き、インド思想を深く掘り下げていくまで、西洋世界ではそういうことを認識すらできていなかったのだから。

西洋が高等とか東洋が高等とか、そういう話をしたいんじゃない。自分自身が認識していない世界観は認識できないという「思考の地平線」の話だ。遠くを見るためには、移動しちゃいけない。そうすると元いたところが見えなくなる。高くに行くのがいいのだよね。だからこそ掘り下げる、高めるって言うのが必要なんだ。おお、ダイバーシティ。自分自身の中にこもったままじゃ、狭い価値観でそれが真実と勘違いしたまま終わる。

なるべく正反対のものを理解する努力が必要だ。東は西を。男は女を。光は闇を。正義は悪を。秩序は奔放を。でも、いきなりは無理だ。正反対なのだから。隣のほうから近づいていくべきだとユングは言った。東から西にいきなり行くのじゃなく、まず北に行く。それから西だと。まあ、この工程には、一般的な人で大体一生分くらいの時間がかかると言う。

まあ、時間をかけりゃいいってもんでもないけど、「自分を愛したらいい」で自分を愛せるくらいなら、他人も愛せますて。テロリストも、オウム真理教も、すべて愛せますよ。自分を愛せない人には、それくらい自分を愛することが難しいんですぜ。

自分も他人もない。愛するって事自体が結構難しいことなんですから。