NATROM本『「ニセ医学」に騙されないために』解説文 - warblerの日記
「批判と言う態度は養生の雰囲気になじまない」神田橋篠治
安保徹氏の反ワクチン論を信じてしまった衆議院議員 - NATROMの日記
「なぜ安保徹氏は誰にでもわかるような嘘をつく必要があったのだろう?」という観点が欠けているよな。嘘は嘘だと糾弾すればそれでいいのはアカデミックの世界だけ。
病院で養生ができるだろうか。
私は精神病院に3週間入院したことがあるが、このときは養生ができたと思う。
しかし、決して羨ましがってはいけない(誰もうらやましがらんだろうが)。私が直ったのは、入院した病院がたまたまパワースポットであったことが主たる原因である。
半分くらいは普通の人だが、半分くらいは変な人。ちなみに自分も変な人に属していたわけだが、あまり気は休まらない感じ。ホールのテレビが大音響で、ゆっくり休みたいのに休めない。風呂の時間は決められた時間以外には入れない。時々ウ○チが浮いている。トイレに紙が無い。
病棟の中には絶望のみがあった。自分は「死門」をくぐったと言う自覚があった。それがよかった。
全てをあきらめたときに人は「死」を受け入れられる。その作用が、病を緩和させたことは間違いが無いだろう。ある意味、究極の「養生」である。
それ以降、私はネット上における「死」(炎上、いじめ、粘着その他)を全く恐れないようになった。自分でも驚くほどの変化だった。もう、ネットから逃げ回る必要は無い。そしてだいぶつは生まれ変わり、「隠すほどの爪なら無い」ということを悟った。
絶対的に支持を得ている論者もおそるるに足らない。
正しさをどこに求めるかの問題だ。
彼の人は、論理の極限に真実を求めているのだろう。
だが、私は思う。そこに真実など無いと。
では、非論理の極限に真実はあるのか。おそらく、否だろう。
ではなぜ、いまさら非論理の頂を目指すのか。
そこに行ったことがないからだろう。
精神病院の病棟で、その世界を垣間見たからであろう。
そこにある「治療」の対極に位置する概念「養生」。これは私自身の今後の半生において、健康を維持する最も重要な指針である。
治療は、一時的なもの。
養生は、永続的なもの。
生活習慣病という概念は、「養生」の概念を西洋医学に一部取り入れたものといえるだろう。しかし、西洋医学では相変わらず「治療」の雰囲気が支配的である。
そして、居心地の悪い待合室、長い待ち時間、注射の下手な看護師、余命○ヶ月などと脅かす医者、すべてにおいて「養生」という考え方を欠いている。
私のいいたいことは、ただ単にそういうだけのことなのである。
「なんだつまんないことだ」
そうだそのとおりつまんないことだ。
だけど、そのつまんないことを、日本の医療機関の大半は満足にできずにいるのだぜ。