だいぶつのブログ

いまさらなことをいまさらに語ります

ふむ。人は殺してはいけないことはわかった。では、動物は殺しても良いのか?

人は場合によっても殺してもいいと言ったが、人は殺してはいけないと反論する人がいた。まあ、人それぞれの考え方を重視する俺としては、その点についても論考してみたい。

ひとまず、人は殺してはいけないとしよう。では、動物は殺してよいか?

法律上、動物を残酷に殺すことや虐待はダメだが、殺してはいけないとはなっていない。そりゃそうだ。動物殺しが禁止されたら、おまんまの食い上げだからだ。牛肉も、豚肉も食えねぇ。

しかし、肉が食いたいから殺してもいいというのも手前勝手な言い分だ。でも、それが現実なのだ。もっと言えば、殺して肉を食わねば俺が餓死で死ぬから殺して食うのだ。俺の命こそが大事なのだ。・・・あれ?前と同じ結論になったぞ。

つまり、誰しも自分の、自分だけの命が大事なのだ。そのために、他者を殺すことは止む無しなのだ。

しかし、自分で手を下すのは嫌だ。屠殺は、他人にやらせねば。下賎な身分のものに。俺は手を下していない。善だ。殺していないのだ。食っているだけだ。

こういう「善人」は後を絶たない。親鸞聖人はこう言った。

こんな「善人」とやらでも極楽にいけるそうだぜ!だったら「悪人」はもっと極楽にいけるだろうぜ!(現代語に翻訳)

ま、現代風に言うと「偽善者」とも言う。

原始仏教教団でも殺すことは固く戒められた。人をじゃないぜ。「他生を」だ。あらゆる生を殺すことを禁じていた。(この「他生」に植物が含まれるかいなかは議論が分かれるが、含まれると俺は思っている)。

でもそんなことは不可能だ。生きていくうえで殺しは避けられない。一日足りとて殺さずにいられる日などないのだ!仏教には、「縁起」という考え方がある。たとえば、あなたが川の上流でおしっこをしたとしよう。それを下流の人が飲んで激しい腹痛を起こし死んだ。これはあなたが殺したことになるのだ!(仏教では)。こういうのを考えると「他生を殺さずにいる」などということはおよそ人のなしうる所業ではないことがわかる。

原始仏教教団でもこれが実行できたのは釈尊ただ一人といわれている。

たとえば、仏教の出家信者の108戒のひとつに「不掘地戒」というのがある。「土を掘ってはならない」という意味である。なぜかというと、土中の虫を殺す恐れがあるからだ。人に頼んで掘らせてもいけない。

では、仏教教団の癖に、寺を建てられない。土を掘らねば寺は建たないからだ。どうするか。こういうときのために「浄語」という抜け道がある。清水建設を呼んできて、「汝、ここを掘れ」というと戒律違反でアウツ。なので「汝、ここを知れ」と言う。

地面を指差しながら「知れ」と言えば、掘れと言う意味だと察するだろう。これで、戒律を犯さずに土を掘ることに成功したゾ!

欺瞞・・・。

おそらく読者の頭の中にはこんな文字が泳いでいるのではないだろうか。

そうだ欺瞞だ。だが、浄語を使おうが使うまいが、戒律は犯さずには生きられないのだ。ならば、その罪に自覚的に生きるか無自覚的に生きるか、そのどちらかの道しか人は選べない。

釈尊は、自らの罪に自覚的に生きる道を教徒に示した。それは、因果応報のPCDAを高速サイクルに挿せ、結局自分自身が幸せになる道に近づくことだからだ。

 

ムスリムが豚を食わないと言ったような食のタブーは、こういう「自らの犯し続けている罪に少しでも自覚的でいられるように」と言う意味を持つ。食のタブーを持たない日本人は、別の方法でその道を見つけなければならない。

 

会社でプロジェクトをやっていても、本当にヤバいことはみんな口を開かない。ヤバいことこそ、口を開いて方向修正を図るべきだ。罪に無自覚的に生きてきた結果、原発事故とか年金問題、医療崩壊という、極めて修正困難な巨大な課題を積み上げてきたことは、皆ご存知のはずだ。

臭いものに蓋を。そんなのは考えたとは言わない。