老いぼれエンジニアには隠す爪がない

この時代に老いぼれを見たら、「生き残り」と思え…!

ほんとうの仏教の話

仏教学などをかじった人が陥りがちな仏教への誤解に、お釈迦様=仏陀がはじめから仏陀であったかのように考える、というものがある。これは間違いで、お釈迦様は最初はただの人であった。

お釈迦様とイエスキリストの違いは明確で、

お釈迦様:生まれはただの人で、修行により悟りを得て仏陀となった

イエスキリスト:生まれながらに「神の子」だった

という点に尽きる。

なので、キリスト教では「神になろう!」という修行をする人は存在しない。

しかし、仏教では「お釈迦様でもなれた仏陀に、俺もなりたい」という人が存在する。

これに対し「畏れ多い!」として敬虔な仏教徒は仏のみ教えに従って生きねばならん、という人もいるが、お釈迦様がそれを否定した事実は存在しない。そういう考え方は、私の考えではキリスト教的宗教観であると捉えている。キリスト教における「神」が「仏陀」に置き換わっただけだ。浄土真宗などはまさに日本版キリスト教である。

だから十字軍≒一向宗みたいな宗教的軍事勢力ができたりする。

とはいえ、そもそも「仏陀」になったのはお釈迦様だけだと言われているし、さらにその修行方法が謎だ。なぜなら、お釈迦様は自分の修行メソッドをまったく書き記して残していないのだ!

これは、お釈迦様が自分の悟った真理は紙に書き記せるようなことじゃねーんだと思っていたという意味だと思う。お釈迦様は王家の出だから、読み書きは普通以上にできたはずで、本のひとつも書こうという考えがまったくなかったわけがないし、そういうオファーもあったはずだ。でも全部断ったのだ。だから釈迦直筆の仏教経典はこの世のどこにも存在しないのだ。

現存する仏教経典は、釈迦の死後、原始仏教教団のメンバーが集まって記したものであると言われる。その中でも知恵第一と言われる舎利弗:サーリプッタがよく登場するのは、原始仏教教団の中でサーリプッタが一番賢く、釈迦が目をかけていたためよく話しかけられたためである。また、サーリプッタよ、と釈迦が話しかけるシーンが多いということは、これを書いているのは別の人である。一説には阿難:アーナンダという人が書いたらしい。多聞第一といわれる釈迦の直弟子である(弟子というより身の回りのお世話係みたいなものだったそうだ)。

ようは、仏教経典というのは記憶を元に書かれたものなのである。

さらに釈迦の教えは一人ひとり違う教え方をする。現在の文科省の横並び教育の逆だ。天才的なコーチング能力を持つ釈迦は、一人ひとりその人の知能レベルを配慮して理解できるよう例えを多用して語った。これを一般に「方便」という。同じく仏教経典によく登場する言葉である。

つまり、釈迦に直接コーチングしてもらえた幸運な人は別として、経典だけ見る人は不十分な情報量に基づきあれこれ想像して釈迦の境地に近づくほかないということになる。特に「サーリプッタよ、」と語られているのは超天才的な頭脳を持つサーリプッタに対して、釈迦が話しかけているということを忘れてはならない。それは「超天才にしか理解できない」ことを言っている。だから、凡人はそんな方便を聞いても逆に耳の毒だ。

結局、釈迦の死後仏教を極めようと思えば「想像で」やるしかない。そのひとつが禅宗だ。禅宗は正当な釈迦仏教ではない、とする言説があるが、筋違いだ。「釈迦の教えを守って生きていく」というのはキリスト教の「神の教えを守って生きていく」のとなんら変わらない。教学をやった人に限ってこういう誤謬に陥りやすい。今風の言葉で言えば「思考停止」である。「いかにして残された少ない記録から釈迦の境地を再現するか」という探偵のような仕事、その中において生じた密教思想であり、確かに成立は釈迦仏教よりはあとだ。とはいえ、それには一定の価値があるし、通り一遍の教学よりこちらのほうがよほど釈迦仏教に近いと思う。なぜなら、釈迦だって最初はインド風の修行(断食とか)をしていたんだから。

ま、何れにせよ釈迦の言う「末法の世」というのは、やはり外れていないように思う。

釈迦が天眼通(予知能力)を持って見通した未来では、3000年も経つと仏教の教えはわけワカメになって意味を成さなくなるだろう。と釈迦本人が言っていたそうなのだから、釈迦の教えを絶対と信じる向きは、現在は末法なんだからもう釈迦のほんとうの教えなど失われていると考えなければおかしい。