あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
新春ということで初詣の話題なのですが、興味深いニュースがありました。
寺がベビーカー自粛のお願いをしたという話だったのですが、その理由が
また、ベビーカーがあれば優遇される寺ということが知れ渡り、小学5年生くらいの子供をベビーカーに乗せて現れる親が相次ぐことになった。親は優先通路に入るとベビーカーをたたみ、降りた子供は敷地内を駆け回った。そこで寺は優先通路を通れるのは押している1人だけ、という制限を設けた。ところが、ファミリーは2手に分かれて参拝することになり、先に参拝を終えたベビーカー組の中には境内近くで合流のため待機する、ということが起こった。
(上記リンクの記事より引用)
という、不謹慎な理由でベビーカー優先を悪用していた輩(いわゆるDQN)の仕業であったということです。
コンビニの車いす駐車場にも、明らかに車いすの人が載っていそうにない車に「車いすのステッカーだけが貼ってある健常者の運転する車」が停められていることがままあり(というか、最近では停めてないことのほうが珍しかったり)、神経を疑っていたのですが、その延長線上のことだったようです。
不思議に思うのですが、この人たちはいったい何のために初詣に来ているのだろうか?ということです。遊園地のアトラクションならまだわからないではないですが、初詣というのは別に楽しいことではありませんよね。一種の「行事」として、イヤイヤ正月早々行列してお参りしているわけです。
いったから何か面白いことがあるわけでも、お金が儲かるわけでもございません。
「ご利益を祈念するため」に行くわけですよね?賽銭の金額の多寡で得られるご利益が変わるわけでもございません。
一方、そういう「ルールを悪用して」初詣をするというのはどうなんでしょうか?過程がおかしくても結果が正しければいい?いやいや、初詣なんて「過程そのもの」ではありませんか。「悪いことをしてまで行くようなもんじゃない」でしょう?
コンビニの車いすエリアに駐車しているDQNカーにしてもそうです。どうせ不法にとめているんです。「なぜ車いすステッカーを張ってあるんだ?」そんなもの貼っていようがいまいが、やっていることが不法に変わりはありません。それならいっそ、そんなもの貼らずに止めたほうがまだ潔いと思うのですよね。
「行為の矛盾」に気づいてほしいものですね。