「お前には向上心がない」
と、人に対して怒る人がいる。
しかし、俺は向上心がありゃーいいってモンではないと思う。
向上心がある=向上する、ではないからだ。
学生時代、コンピューターサイエンス系の学科であったにもかかわらず、プログラミングができる人は10人に一人くらいだった。
その中でも特にプログラミングできないヤツが、良く俺にかじりついて教えてくれと乞って来ていた。そのころ「鍛えればプログラミングできるようになる人」と「鍛えてもプログラミングできるようにならない人」がいると知らなかった私は、一生懸命教えたものだ。結果は無残なものだった。結局、課題を俺が代わりにやったに過ぎないということがままあった。
この人はきっと「向上心」のある人だったんだろう。しかし、結果的にはプログラミング能力は全くといっていいほど向上しなかった。人間、向き不向きがあるのだろう。
いま話題の小保方博士も、きっと向上心(野心)に満ち溢れた人だと推測する。そして、たどり着いた結果が「捏造」だ。一時的に、地位は「向上」した。
向上するかどうかなど、私にとってはどうでもいいことだ。今を楽しく生きる。自分の感覚に正直に生きる。それで十分幸せだからだ。
向上するとかしないとか言っているから、いちいち人を自分より上とか下とか位置づけないと物が言えない。ポジショントークってヤツですね。
ウマいモンはウマい。マズいモンはマズい。それをはっきりいって何が悪い?おれは「ノーポジトーク」がしたいのだ。
福岡は醤油が甘いといえば、福岡は大豆の名産地だという(だから何?)
大豆の名産地の醤油がうまいのなら、ロシアの醤油はさぞうまかろう。
私だって何も調べていないわけではない。何も調べていなければ、こんなことすら書けないということはわかるはずだ。だが、取材した結果をレポートする記者じゃないのだ。「気持ちよいとは何か?」ということを、自分自身の感覚をたった一つの検証材料として追及している、人生の哲学者である。
これを「超論理」というわけである。
データは10人より100人、100人より1000人がよいというのは、近代科学が皆さんを洗脳した結果に過ぎない。
ならばなぜ、皆「スティーブ・ジョブズ」というたった一人のカリスマに心酔するのか?多数を調べるのはもちろん研究の一手法だろう。だが、一人を深く調べるということもまた研究の一手法である。データ数が1000の研究より1の研究のほうが絶対的に劣っているなどとは、誰にもいえない。
平均的におしなべた、無味乾燥な統計的数字でそれを否定しようと試みるのは、傲慢であろう。
「科学」という絶対的道具を手にしていると勘違いして、人間という本来非科学的な存在を定義しようと試みることは、神に対する冒涜である。
マズいものをマズいと率直に表現するものは、もっと尊重されるべきである。