福岡の醤油は甘い。
この事実の指摘は、福岡に住んだことがない人間にとっては、あるいは、福岡にずっと住んでいてそんなことに疑問すら持ったことがない人間にとっては、あるいは無意味なことかもしれない。
しかし、私は自分の感覚に正直である。正確には正直に生きようと思っている。もっと正確に言えば、私が病気から回復できたのはその事実に気づいたからである。
id:locust0138という人がいる。典型的な頭でっかちの理屈屋だ。たいした苦労をしたこともないくせに、人の話を頭ごなしに否定する独善家だ。この手の人は感覚的な話を嫌う。彼は農業が専門だそうなので、私は以前「なぜ植物は発芽するのか?」と聞いたことがある。答えはない。頭でっかちの人には答えられない質問をわざとしたからだ。
答えは「植物の種に発芽しようという『意思』があるから」である。これに哲学的・論理的あらゆる面から検証を加えようとも、この回答が間違っているという確証は得られないだろう。
むろん、このネタは私の創作ではない。元ネタはアインシュタインだ。アインシュタインは「なぜ石は落ちるのか」という問いにハマっていた。重力が働くからというのがニュートン先生の答えだったわけだが、ではなぜ重力が働くのかという話になる。ちなみに、ニュートン先生は「なぜ石は落ちるのに月は落ちないのか」という問いにハマっていたとされる。
アインシュタイン先生は、相対性理論という見事な方程式を生み出し、重力と空間と時間の概念を統一して見せた。これによると石は落ちているのではなく、坂道を転がっているような物だということになる。
まあ、若かりしころのアインシュタインもこれでひとまず納得はした。しかし晩年、根本的に自分の疑問の解が得られていないことに気づく。アインシュタインは石が落ちるという現象に対する方程式(ニュートン力学の方程式)を、より正確な方程式(相対性理論の方程式)に置き換えたに過ぎない。石が落ちる理由を解明したわけではなかったのだ!
そこで流浪の旅に出たアインシュタイン先生は晩年、モンゴルにいた。そして、遊牧民の少年に聞いてみた。「君、なんで石は落ちると思うかね?」
その答えはアインシュタインを震撼させる。
「石は、落ちたがっているのさ!」
石に意思があるという仮定。
そこに答えはあった。物に意思などないと仮定し、物理世界のみで答えを求め続けてきた自分を愚かしくさえ思ったであろう。誰がいったい、物に意思がないと断言できるのか?(無論、意思があると断言もできないわけだが)。
ま、頭でっかちの理屈屋には、アインシュタインが晩年ボケていたという風にしか思えないかもしれない。
しかし、いつの時代も世界を切り開くのは方程式ではない。意思なのだ。
だから私は言いつづけなければならない。福岡の醤油は甘いと。