老いぼれエンジニアには隠す爪がない

この時代に老いぼれを見たら、「生き残り」と思え…!

ネットの声は、世界のほんのごく一部

ネットを毎日のように見て、ブログやニュース記事などを読むのが当たり前のようになってくると、それが世界の全てであるような錯覚を覚えるようになる。

確かに、一昔前に比べれば膨大な量の知識・情報がネット上に集約されつつあるのは事実だが、それは全体のごくほんの一部である。

たとえば、はてな界隈で尊師イケハヤのことを知らない人はいないと思うし、「まだブログで消耗してるの!?」とか言っても意味が分かると思うが、海外に行けばそんなの知っている人なんていないし(アメリカ人の半分以上はSMAP解散報道とかなんとも思っていないしそもそも知らないのに、イケハヤなんて知るわきゃない)、日本でもちょっと年配になるとそんなことは知らない。

そもそも知る必要のないことだし、知って何のメリットがあるワケでもないのだから、知るモチベーションがないし、ネットとのふれあい度がぜんぜん違う。そういう老人層(だけじゃないと思うけど)にとって、楽天市場で効率のいい商品の探し方なんてありきたりの情報のほうが、イケハヤのブログ記事なんかより何百兆倍の価値があるから当然のことである。

まあそれでもそこそこユーザーはいるわけで、ひところのNIFTY-Serveの総ユーザーよりはたくさんの人数の目に触れるな物であることは疑いの余地はないけど、さりとて全世界の全ての事象を網羅しているわけがないというのもゆるぎない事実である。

たとえばネットで「死にたい」といっている人がたまにいるが、世の中には本当に死にたいと思っている人がいて、そういう人はネットに発信するまでもなくすでに死んでいたりする。私が死にたいと思っていたときのことはネットにはアップせず妻にメールで送ったが、まあ、ご存知のとおりおめおめと生き延びている。人にわかってもらいたいと思っているということはまだ本格的に「よし、死ぬぞ!」みたいな気持ちでないことは明らかで、実際に死ぬ可能性は極めて低い(ゼロではないだろうが)。なのでそういう人は基本スルーでいいと思う。

まあ、たかだか一人の人間が生きてきて経験したり見聞できることなどたかが知れている。だから、古の賢人は

愚者は経験に学ぶ。賢者は歴史に学ぶ。

といったのだ。自分の経験を全てと思い込むようなことは、愚か者のすることだ。

そして、このネット世界、はてな界隈を見ているあなたの眼差しで読み取れる範囲のもの、それはやはり一個人の経験に過ぎないのである。これは、「薄く広く」経験できる類のものではないだろうか。考えても見てほしい。ハワイ旅行に行きたいか、それともGoogle Streat Viewでハワイバーチャル旅行に行きたいかを。私ならハワイ旅行のほうがいいと思うが、いかがか。

むろん、バーチャル体験を否定するものではないが、知識の学習と実体験が組み合わさったとき、人はより大きく成長できると思う。これらがうまくかみ合わないと、成長に繋がらない。

これを、ビスマルク風に言うとこうなる。

愚者は、何も学習せず、いきなり経験する

賢者は、歴史のアナロジーに学び、経験で復習する 

ひたすらウェブサーフィンで情報収集し、情報発信もウェブに対してのみする、というのは自分の実存世界を縮め、可能性を低めることにはならないだろうか?

以前、私は全「プロブロガー」に対し、「君たちは、実経験に基づいて書いていないから、ブログが軽い」と言ったことがある。

PVが仮に集められたとしても、ガツン、とかズシン、という感じでこない。ボクサーのジャブみたいなものだ。得点は稼げるが、ダメージはあまりない。

そう考えると、イケハヤ氏は高知の体験型農場で「実体験」に基づいたコンテンツを発信することにより、人気を維持している。これはいい傾向なのではないだろうかと思う。

もちろん、イケハヤ氏に師事する予定は今のところない(笑)。

ビジネスの基本は「安く買って高く売る」

先日、ビジネスは○○種類に分類される、というような記事を見た。

私は、この世にビジネスはひとつしかないと思っている。「安く買って高く売る」。これだけである。

たとえば、クリエイターと呼ばれる人は「無から何かを作り出している」かのように見える。しかし、クリエイターはそれまでの人生における経験を「買って」、それを「表現」として対価を得ているのだ。

人気があるライフハック系の記事などまさにそうだ。新発売された商品のレビューをする。それに対してアクセスが集まり、広告料(対価)が支払われる。

無償モニターになれるような人ならタダで仕入れられているようにも見えるが、モニター使用する時間はコストだし(自分の時間を「払って」モニターしている)、その地位を得るまでに相応のコストを費やしているわけで、その地位も「買っている」のである。

製造業も、ゼロから商品を作り出しているわけではなく、いろいろな協力会社にパーツを作ってもらって(それを買って)組み立てて高く売っている。自社工場を持たないファブレス製造業というのが最近流行っているが、ゼロから作り出す工場ばっかりであればファブレス製造業など流行る道理がない。

ちなみに、Appleは世界最大のファブレス製造業である。言ってしまえば、商品を右から左へ流して儲けている商社とそうは変わらない。

 

私個人は製造業でずっと働いていたため、なんとなくコンサルティングファームや商社というものを下に見ていたのだが、結局製造業もつまるところ知識集約産業と化し、ファブレス製造業と化す。そういう意味では「安く売って高く売る」というビジネスの基本を踏襲していると言うか、踏襲せざるを得ないのだろう。

 

とまあ、善良な中年なら当然知っていそうなことについて、最近ようやく見えてきたのが現状である。だって、学校ではお金の稼ぎ方なんて教えてくれないんだもの!

ちなみに、私のおじいちゃん(産まれた時には亡くなっていて、会ったことはない)は戦中、梅田で雑貨屋をやっていたらしい。中国から仕入れた商品を売ったりして、割と儲かっていたそうだ(我が家には、おじいちゃんが中国の商人と並んだ古い写真があった)。おじいちゃん(次男か三男?)の本家は、行ったことがないが京都にあり、呉服屋をしているそうだ(今もあるかは知らない)。

商家の血筋、らしい。

それが覚醒すればいいのだが・・・。

やっぱりはてブロか?

はてなも上場したので、はてブロに戻ってくることにした。

というのは半分冗談だが、半分シャレでAWS + S3 + StaticPressでブログを構築したのだが、記事の更新がとても面倒くさいと言う事がわかった。

隠すほどの爪なら無い | 精神病を治そうと思ってはいけない。「上等な精神病」を目指すのです。

プラグインがアップデートするたびに構築しなおしたり、携帯から気が向いたときに投稿できなかったり。

これは、そこそこまとまったコンテンツをもっている人が、ほったらかしで公開しておくような用途向けだな、と感じた。

ということで、はてブロに戻ってこようかなと思った。

最近、はてな自体のアクセスがアップしているせいか、ちょこちょこ読者も増えているようなので、こちらで更新するのがよさそうだ。

AWSのシステムのほうは、勉強もかねていたし、ドメインも使いまわしのサブドメインなのでまあいいかなと言うことにしておく。

また気が向いたら、その辺のことも書こう。

さて、福岡生活もかれこれ2年を超えたのだが、いっこうに慣れない。慣れるどころか、最近PM2.5がハンパなくて、家族も喘息気味だ。

福岡市も、ようやく重い腰を上げて対策委員会みたいなやつを始めたようだ。効果が出るといいけど、時間がかかるだろう。中国政府も対策を打ち始めたようだが、同様に時間がかかる。

家族が公害病になるのを手をこまねいているわけにも行かないので、早めに「避難」をかねて、奈良の山奥に帰ろうと思う。なんとか、今年中くらいをめどに。

しかし、関西にはまったく仕事がない。理想は、同程度の条件の職場に転職し、なんらかの住宅扶助が得られることだが、残念ながらロートルにそれだけの待遇が期待できる会社は皆無だ。

面接交通費出しますよというところさえ僅少だ。関西は雇用の多くを家電メーカー大手が担っている。中小企業はそれらの会社の下請け・孫請けといった位置づけで、ハッキリ言って「雇用を舐めている」会社が多い。

自社の将来を任せるべき人材を雇おうというのに、交通費くらい気前よく出せないのか。ケチって良いところとケチってはいけないところをまったく分かっていない。

そうやって関西経済が地盤沈下していったというのに、まったく反省のそぶりすらない。中央は年寄りが仕切っているのだから、関西は若手が仕切っていく。そういう流れに名って欲しかった。だからこその橋下市長人気だったはずだ。

しかし、その流れは断ち切られてしまった。この後は、大阪も福岡みたいな「傀儡都市」への道を歩むのだろう。

となると、奈良に帰っても就職口はないということになる。

若手社長のベンチャーもポツポツと出来てきているようだが、年下の社長とうまくやれる自信はないし、若い人の力を信じることも大事だろう。自分自身が「若者が将来の日本を作り、年寄りは黙って応援するべき」という信条の持ち主なので、なかなか勤め口がない。老害の下で働くのはもっといやだし。

仕方ないので、尊師イケハヤの真似事でも始めようかなという気になっている。

とはいえ、炎上マーケティングは嫌いなので(師も好きでやっているわけではないのか?)もうちょっと違う方向で何かビジネスみたいなことを考えたい。

 

ほんとうの仏教の話

仏教学などをかじった人が陥りがちな仏教への誤解に、お釈迦様=仏陀がはじめから仏陀であったかのように考える、というものがある。これは間違いで、お釈迦様は最初はただの人であった。

お釈迦様とイエスキリストの違いは明確で、

お釈迦様:生まれはただの人で、修行により悟りを得て仏陀となった

イエスキリスト:生まれながらに「神の子」だった

という点に尽きる。

なので、キリスト教では「神になろう!」という修行をする人は存在しない。

しかし、仏教では「お釈迦様でもなれた仏陀に、俺もなりたい」という人が存在する。

これに対し「畏れ多い!」として敬虔な仏教徒は仏のみ教えに従って生きねばならん、という人もいるが、お釈迦様がそれを否定した事実は存在しない。そういう考え方は、私の考えではキリスト教的宗教観であると捉えている。キリスト教における「神」が「仏陀」に置き換わっただけだ。浄土真宗などはまさに日本版キリスト教である。

だから十字軍≒一向宗みたいな宗教的軍事勢力ができたりする。

とはいえ、そもそも「仏陀」になったのはお釈迦様だけだと言われているし、さらにその修行方法が謎だ。なぜなら、お釈迦様は自分の修行メソッドをまったく書き記して残していないのだ!

これは、お釈迦様が自分の悟った真理は紙に書き記せるようなことじゃねーんだと思っていたという意味だと思う。お釈迦様は王家の出だから、読み書きは普通以上にできたはずで、本のひとつも書こうという考えがまったくなかったわけがないし、そういうオファーもあったはずだ。でも全部断ったのだ。だから釈迦直筆の仏教経典はこの世のどこにも存在しないのだ。

現存する仏教経典は、釈迦の死後、原始仏教教団のメンバーが集まって記したものであると言われる。その中でも知恵第一と言われる舎利弗:サーリプッタがよく登場するのは、原始仏教教団の中でサーリプッタが一番賢く、釈迦が目をかけていたためよく話しかけられたためである。また、サーリプッタよ、と釈迦が話しかけるシーンが多いということは、これを書いているのは別の人である。一説には阿難:アーナンダという人が書いたらしい。多聞第一といわれる釈迦の直弟子である(弟子というより身の回りのお世話係みたいなものだったそうだ)。

ようは、仏教経典というのは記憶を元に書かれたものなのである。

さらに釈迦の教えは一人ひとり違う教え方をする。現在の文科省の横並び教育の逆だ。天才的なコーチング能力を持つ釈迦は、一人ひとりその人の知能レベルを配慮して理解できるよう例えを多用して語った。これを一般に「方便」という。同じく仏教経典によく登場する言葉である。

つまり、釈迦に直接コーチングしてもらえた幸運な人は別として、経典だけ見る人は不十分な情報量に基づきあれこれ想像して釈迦の境地に近づくほかないということになる。特に「サーリプッタよ、」と語られているのは超天才的な頭脳を持つサーリプッタに対して、釈迦が話しかけているということを忘れてはならない。それは「超天才にしか理解できない」ことを言っている。だから、凡人はそんな方便を聞いても逆に耳の毒だ。

結局、釈迦の死後仏教を極めようと思えば「想像で」やるしかない。そのひとつが禅宗だ。禅宗は正当な釈迦仏教ではない、とする言説があるが、筋違いだ。「釈迦の教えを守って生きていく」というのはキリスト教の「神の教えを守って生きていく」のとなんら変わらない。教学をやった人に限ってこういう誤謬に陥りやすい。今風の言葉で言えば「思考停止」である。「いかにして残された少ない記録から釈迦の境地を再現するか」という探偵のような仕事、その中において生じた密教思想であり、確かに成立は釈迦仏教よりはあとだ。とはいえ、それには一定の価値があるし、通り一遍の教学よりこちらのほうがよほど釈迦仏教に近いと思う。なぜなら、釈迦だって最初はインド風の修行(断食とか)をしていたんだから。

ま、何れにせよ釈迦の言う「末法の世」というのは、やはり外れていないように思う。

釈迦が天眼通(予知能力)を持って見通した未来では、3000年も経つと仏教の教えはわけワカメになって意味を成さなくなるだろう。と釈迦本人が言っていたそうなのだから、釈迦の教えを絶対と信じる向きは、現在は末法なんだからもう釈迦のほんとうの教えなど失われていると考えなければおかしい。

「治療」と「養生」

病気を治すには2つのフェーズがある。「治療」と「養生」である。

このうち、後者の「養生」はあらゆる病気の快癒に不可欠な概念であるにもかかわらず、現代ではないがしろにされがちである。

それは、現代医療に起因する。現代医療の大半は、前者の「治療」というアプローチを突き詰めたものである。端的に言うと、現代医療とは「治療を売るもの」である。

「養生」は金にならない。基本的には「何もしない」ことが「養生」となる。従って金がなかなか取れない。特に日本においては、目に見えないものに金を払う人が少ない。アメリカなどでは目に見えないサービスにお金を払うマインドが一般的である。だからGoogleやFacebookというソフト会社が大儲けできる。日本で、これらの会社に披見するほど大儲けしたソフト会社はいまだ存在しない。

たとえば擦り傷をしたことを考えてみよう。たまに「つばをつけておけばなおる」という医者がいるがたいていはその通りで、何もしなくても自然に快癒する。これが「養生」である。病気・怪我の快癒において「養生」は必須であるが「治療」は不可欠ではない、というひとつの例である。

次に動脈に達するほどの刺し傷のことを考えてみよう。この場合、「治療」つまり止血などの行為が必要となる。しかし、治療が出来るのは止血や縫合までであり、快癒するためにはその後の「養生」が必要となる。入院すると言う形で「養生」を病院が支援するケースもあるが、よほどの大怪我でなければすぐ退院させられ自宅で養生しろとなる。なぜなら、「治療」する事がなくなり「養生」だけになると病院が金を取れないからだ。日本の法律で「治療」には金をとってもいいが「養生」には金を取ってはいけない(正確には違うが)となっているからだ。このため「養生」の指導をする人が少なくなる。なので正しい「養生」が出来ず病気をこじらせたりする。

個人的な見解では、精神科の病の大半には「治療」が必要ない。必要なのは正しい「養生」だけである。しかし上記の構造の通り、日本の病院ではなかなか正しい「養生」が出来ない。認知行動療法、作業療法などはその中の数少ない「養生」の指導である。しかし「治療」に類する精神薬の投与が主眼として行われてしまう。結果、病気をこじらせるケースが後を絶たない。

このような日本国医療の世紀末的状況の中において、現役の精神科医によって書かれた「精神化養生のコツ」は類稀なる著書と言えるだろう。

「養生」を自らの守備範囲としつつオカルト医療を揶揄する現役医師による言説には全く感心できない。いったい、このような医師は「養生」の重要性を認識できているのだろうかと思う。あるいは、「病気の快癒」などそもそも眼中になく「治療」によりいかに金を取るかしか考えていないのかとさえ思わされる。

オカルト医療や統合医療といったものは、そういう現代医療に欠落している「養生」の概念を保管するものとは考えられないだろうか。

たとえばホメオパシーである。効果がない「レメディ」を高価で売りつけるとあり意思には大変不評である。しかし、上記した「精神病患者が薬物による『治療』により病気をこじらせ場合によれば自殺する」というケースを考えてみては同だろう。この患者がレメディによる治療を選んだ場合、効果はないが副作用もないはずであるから、薬によって病気をこじらせるリスクを下げたとはいえないだろうか。

なかなか「治療」重視の風潮は変わることなく、実は「治療」より重要な概念である「養生」が認知度が低いままである現状において、こういうオカルト医療は一種の「必要悪」になりえるのではないかと考えている。