大乗仏教、と言う言葉がある。
たいていの宗教は、選民思想に基づいている。たとえば、ユダヤ教なんかだとユダヤ人しか救ってくれないと言うケツの穴の小ささだ。ユダヤ教に端を発しているキリスト教とかイスラム教も似たような選民思想の要素を持っているし、実は原始仏教(釈迦が産み出して間もないころの仏教)も選民思想を持っていた。
たとえば山奥にこもって修行しないと仏になれない(=救われない)という禅宗なんかはその典型だ。そんな、のんきに(っていうと怒られるだろうけど)山に篭ってばかりもおられんわい!と、日本国憲法なんて影も形もなかったころの人たちですら思ったらしい。
それで産まれたのが大乗仏教って言う概念だ。要は、ちゃんとしたプロトコルさえ踏めば、誰でも救われると言う教えである。現在の日本でもっとも宗徒が多いと思われる浄土真宗(一向宗)がその典型だ。「なんまいだ~」さえ唱えれば、誰でも仏になれると(阿弥陀様が仏にしてくれる)と教えた。
この教えは超絶的に人気が広がった。それと前後して産まれたと言われているのが日蓮宗という宗教だ。日蓮上人(にちれんしょうにん)という人が打ちたてた教えであるといわれている。
日蓮宗の面白いところは、偶像崇拝を禁止しているところだ。協会に行くとキリスト像が、浄土真宗では神々しい阿弥陀如来像が祭られていて、みんなそれに向かって拝む。だけど、日蓮宗は「神や仏といった『ナニカ』ではなく、宇宙原理・宇宙の法則そのものが真実であり仏である」と考えている。この宇宙の森羅万象をつかさどる法則の象徴が、仏教経典の中における法華経(ほっけきょう)に書かれている。法華経を別名蓮華経(れんげきょう)という。妙法蓮華経ともいう。
サンスクリット語で「ナーム」というのが「○○に従います」と言う宣言である。漢語では「南無(なむ)」。妙法蓮華経に帰依することを「南無妙法蓮華経」と言う。
これが救われるのに正しいプロトコルであると、日蓮上人は考えたのである。宇宙の真理に従います。なるほど、正しい。流れに逆らうのではなく、流れに従って生きますという宣言である。
そして、日蓮上人はこの教えは宇宙最強の教えであり絶対真理なわけであるから、独り占めせずにみんなに教えてあげないといけませんと説いた。
考えてみよう。あなたは、登山を終わって降りてきた。そして、これから上ろうとしている人とすれ違った。その人は、必ず遭難する道へ行こうとしている。どうするだろうか?
ユダヤ教的選民思想で行くと、「遭難するに違いない道へ行くばか者」など捨て置くだろう。「やつはユダヤ人じゃないから道を間違えるのさ」と。
しかし、日蓮はそうは考えない。すべての人間は救われるべきであると信じている。だから、全力で「そちらは遭難する道だから決して行ってはいけない」と教えるだろう。「地図にこう書いてあるのだ、つまらないケチをつけるな」とけなされようとも、必死で最後まで食い止めようとするだろう。
ここでは、選民思想が正しいのか大乗仏教的宗教観が正しいのかについて追求はしない。ただ、日蓮が「妙法蓮華経が究極真理である」と信じていて、かつ「一切衆生が救済されるべきである」と考えている以上、すべての人間、他宗徒をも折伏(宗旨替えを勧める行為)しようとするのは当然の行動であると言える。
自分の教えに自信がなく、究極真理であると思っていなければ、自信を持って折伏はできまい。また、その真実に気づいた自分さえ救われればいいという選民思想の持ち主であれば、やはり折伏はできない。
繰り返し言うが、どちらが正しいと主張する気はないし、私自身が創価学会員かどうかについては、ここではどうでもいい。
日蓮宗の後日談である。
日蓮は死ぬ直前身延山に寺を開いた。もともと寺を開く気がなかったのだが、当時の有力な政治化に「是非」と言われ仕方なく開いたそうだ。日蓮の死後、5人の高僧が寺を守っていたそうだが、日蓮上人が木に書いた大きな「南無妙法蓮華経」を「御本尊」として祀っていた。これを一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)の大御本尊と言う。しかし、一番最年少の日興上人という人が「おかしいな・・・。日蓮上人は偶像崇拝はしてはいけないと説いたはずだ・・・。」と思い、寺を抜け出し、日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)を開いたと言う。
創価学会は、日蓮正宗の民間信徒団体の中で最大級だったものだ。
創価学会が日蓮正宗から破門されたときのくだりを、日興上人が身延山を後にしたときと重ねる信者は、たぶん多いと思う。