老いぼれエンジニアには隠す爪がない

この時代に老いぼれを見たら、「生き残り」と思え…!

福岡は、いま「キテる」か?

福岡に風が吹いている。確かに、ネットでは毎日のようにはやし立てられている。

では実際に、福岡市内に居住し、福岡市内で働いている私の目から見てどうであろうか?

確かに勢いは感じる。博多駅前の郵便局がマルイと合体したり、駅前のイルミネーションもスゴい。一時期のルミナリエをしのぐほどだ。

外国人観光客の数も半端じゃない。もっとも、東京などにも外国人観光客はたくさん行っているだろうと思うから、客観的に福岡がすごいという根拠にはならないが、まあ確かにたくさん外国人(主に中国・韓国の方が多いようだが)を見かける。

とはいえ、新宿や梅田などで見るほどでもないというのが現実である。昔に比べれば、の話だ。

福岡の経済は潤っているだろうか?

昔に比べれば、集客には苦労はしていないかもしれない。しかし、外国人にしてみれば東京ではなく福岡に行くのは、ひとえに物価が安い、という理由ではなかろうか。観光資源やショップの数などから見て、東京に対する優位性などないに等しい。食材は確かに新鮮でおいしいものも多いが、東京だってお金さえ惜しまなければ同等以上のものを食べられる。つまり「コスパ重視」で福岡に来ていると考えられる。

従ってあまりお金を落としてくれないように思う。実際、福岡の観光産業が栄えまくって儲かって儲かって仕方ないということはない。ヤフオクタウンに入っているラーメンショップのおばちゃんによると、客が多いときと少ないときの差が激しすぎてたいへんだという。少なくとも飲食店にとっては、急上下する需要よりも安定した需要のほうがいいことはいうまでもない。

むしろ、無償の「お・も・て・な・し」を求めてやってくるような客にいたっては、カネを出さずに過剰なサービスを求めたりするかもしれない。

私自身も、私の周辺でも、ここ数年の間で給料が劇的に上がったりという話は聞かない。私の給料は過去2年据え置きだ。

福岡市が劇的に発展できない要因は、ひとえにその地形にある。

平野部が少なく、神戸市ほどではないが山と海に囲まれ、居住可能面積が少なく、カリフォルニアのように水も慢性的に不足気味である。

地下鉄が余り発展しておらず、現在七隈線というのが天神までしかきていないのだが、これを博多駅まで伸ばすという。しかしこの工事にも何年もかかる。

アイランドシティという人工島が出来て企業や住宅を補助金を出して誘致しているが、鉄道が通っていない(通る予定もない)ということで敬遠されている。去年の末ごろから、分譲価格が見直されたらしく少しずつテナントが来ている感があるが、なにせ3年前はただの大平原だった。ようやくこども病院が移転完了したが、以前の地下鉄空港線唐人町駅から徒歩数分という好立地に比べ、バスでしかアクセスできなくなり、転院を余儀なくされた人も多いと聞く。

なんでも、アイランドシティには最初鉄道を引く予定だったそうだが、現在西日本鉄道が香椎まで走らせている路線を延長する予定だったのだが、西日本鉄道バスがその計画に水を差したというのである。本州の私鉄コンチェルンを知っている人なら不思議に思うだろうが、西日本鉄道の場合ヒエラルキーが西日本鉄道バス>西日本鉄道なのである。普通と逆だ。

西日本鉄道バスが博多や天神からライナーを走らせてはいるが、輸送力の乏しさは見るまでもないだろう。おまけに市内交通の渋滞を悪化させ、なおさら所要時間が延びる結果となった。

そして、福岡最大のメリットといわれている福岡空港であるが、これが実はボトルネックになっている。かなりの面積の居住可能かつ、博多ターミナルに近接したエリアが空港に占められてしまっている。このため、博多や天神には、あまり高いビルが建てられない。福岡空港周辺のエリアは、地下鉄駅にも近いので居住区にもなっているが、平野部の面積は限られるし、飛行機の騒音もひどい。箱崎など飛行機の発着のたびに地鳴りがするのである。最初、車で通りかかったときに「地震か!?」と思ったものである。

ずいぶん昔に福岡空港移転論(アイランドシティや鳥栖など)もあったそうだが、立ち消えとなっている。※ そして今となっては、市内から福岡空港へ地下鉄で10分というキャッチフレーズがなくてはならないものとなり、移転しようにも出来なくなってしまった。

ちなみに、香港では同じように市街地に近接する空港が社会問題になっていたが、その後郊外に移転し、市内と空港は高速鉄道で結ぶいまのスタイルになった。

正直、福岡の都市政策を見ていると場当たり的で、あまり今後の長期的な人口上昇・発展を進めているような感じはしない。それを象徴するかのように、幼児教育など将来の福岡を担うべき人材への投資は極めて削られている。

これが、偽らざる私の感想である。

 

福岡空港移転について追記

大昔に大前研一氏も言っていたことだが、九州新幹線新鳥栖の近辺に、佐賀県と資本提携して新福岡空港を建設すべきだった(もちろん、無駄の塊の有明佐賀空港は作らないで)。博多から新幹線で数分のアクセスとなり、今と遜色がなくなった。実態としては佐賀県に作るので、有明佐賀空港も必要なくなった。新鳥栖から在来線でのアクセスで、佐賀市内や久留米へのアクセスも改善した。福岡空港跡地には経済特区でもこさえる。完璧な政策だったのではないかと思うのだが。

珍しく引用する

新福岡空港にみる財界人の駄目さ加減 / SAFETY JAPAN [大前 研一氏] / 日経BP社

いずれにせよ、わたしからみたら関空を推進していた財界人にはろくな人がいなかったように、広島にも福岡にも大局的、長期的、かつグローバルな視点を持った人材が不足している。

まったく同感である。

福岡市内交通について追記

本来であれば、地下鉄をもっと増設し、ターミナル駅でバスと連絡する通常のスタイルに変更すべきであるが、西鉄バスの権力が強すぎて実現しそうにない。

そこで、名古屋のようなガイドウェイバス(地下ないし高架で)を手始めに博多ー天神あたりに配備すると言うのはどうだろうか?祇園あたりにも駅(バス停?)を作り、都市高速に直結できるようにしておけば、ヤフオクドーム・ももち地区やアイランドシティへのアクセスもかなり高速化する。

日本最強のバス会社を自負するのであれば、それ位してもバチはあたらない。

 

アパート経営は甘くなかった

ということでアパート経営についていろいろ調べてみたが、調べれば調べるほど奥の深い業界であることが分かった。

具体的に何が奥深いかというと、商売の基本というのは「安く買って高く売る」これ以外にないというのは以前得た気付きのとおりで変更はないのだが、アパート経営の場合「買う」時期と「売る」時期に大きな隔たりがあり、従ってその間の経済環境などの影響をモロに食らってしまうということである。

中古物件も普通に販売しているし流通量も少なくないのだが、その物件の利回りは当然現時点の環境に基づいて計算されているものだ。従って、絶対に安心ということはありえない。

むろん、投資なのでリスクがあるのは承知のうえなのだが、そのリスクが許容可能なリスクなのかそうでないのかが、正直経験がないので判断がつかない。うっかり足を踏み入れると、割高で変な物件をつかまされるのがオチといった業界のようである。

新築一戸建ては2度ほど建てた事があるのだが、やはり明朗会計とは言いがたい。2階とも地場の建設会社に頼んだのでそこそこ明細が見れたが、不動産の場合明細はほとんど見れないに等しい。まあ、見ても分からない可能性も高いのだが、結局販売会社が信頼できるかどうかにかかわってくると思う。

しかし、業者も確実に儲かる物件なら自社で所有したって儲かるわけで、なんらかのリスクがあることなんて承知のうえで売っているわけだろう。買うほうも自己責任である。居住用の住宅ならまだ消費者保護の観点からいろいろな法律の救済を受けられるが、事業用の物件となると話がまったく別である。法律が守ってくれるという考えは捨て、「法律は正しい者の味方ではない。知っている者の味方なのだ」という、なんかの法律マンガで読んだような格言をかみ締めなければならない。

魑魅魍魎跋扈する世界である。甘い考えで飛び込むと大火傷しそうである。それなら、リスクがコントロールしやすいデイトレードや、電脳せどりのほうがいいような気もしてきた。

また、大家業をするというのは、みずからが事業者になって、直接市場からお金を得るということを意味する。大家という響きはかっこいいので少々あこがれはするものの、そうそう甘い世界ではないだろう。

住宅を供給するという大儀はあるので、ソーラー大家などに比べれば再現性も社会的意義もあるのかもしれないが、しっかりとした収益を確立するという意味では、なんだか安易な逃げのような気もしてきた。

ま、こんな短期間でそれに気づけた俺、天才!と思っておこう。

進捗があればまた書く。

ネットでの議論はなぜ不毛なのか

議論と言う行為は、もともと相互理解を高めるためのものである。

相互の意見を理解しあい、より高次の真実に近づくためのツールである。

そのためには、お互い見識があったほうがよい。ネットのほうがお互い先入観を持たずに議論できるように思うのだが、実際にネットで議論してみるとそうでもない。

ネットでは、通常の対面の議論ではありえない、相手の人格否定などの行為が容易に行われるのである。これでは、まともな議論など成立しない。

人は、いつでも判断に根拠を求める。根拠は、たいてい「先入観」である。

たとえば、東芝が不正会計をした。「まさか、あの東芝が・・・!?」となる。

つまり、もともとその人は「東芝が不正会計などするわけがない」という先入観をもっていることになる。

ビッグデータがどうとか統計学が最強とかEBM(証拠に基づく医療)だとか、いろいろ記事がネット上にはあるが、読んだ人の99%はその文献にいちいちあたってはいない。「この人はいちいち文献を提示してるから、ちゃんとした人なんだな」という印象、つまり先入観を受け取るだけなのである。

こういうのは私は印象操作に他ならないと思うのだが、どうだろう?私は、こういうのが嫌いなのであえてどんな記事にも引用元を明示していない。真偽は、この文章を読んだ人がフィーリングで判断してくれたらいいと思っている。

そして、科学論文の世界でもそういう「インチキ引用」が可能であり、あまつさえその論文が英国の高名な科学誌に掲載されうると言うことを示したのが小保方晴子氏の事件であった。

「サドク」された科学論文ですらこうなのだ。ネット上に匿名で公開されている「科学記事まがい」の記事の正確性を妄信することは危険である。

なれば、最初から「うさんくさい雰囲気満点」の記事のほうが私は好きである。従って、引用はしないのである。

権威づけて無知な人に信じさせようとは思わない。

あえて権威づけず、信じてくれる人さえ信じてくれればいいと思う。

どこまで行ってもこのブログは、「私がこう思った」ブログである。

そういう意味では、NATROM帝国はすでに崩壊しているのである。

 

内的対話、ってなんやねん。

発達心理学とかを調べていると、自分がどの感覚優位なのを知りましょう!とか言うのがあって、やったわけだが。

「視覚優位」

「聴覚優位」

「身体感覚優位」

「内的対話優位」 

 の4種類に分類される。

私の場合、「身体感覚」と「内的対話」が同じくらいの比率で優位だった。

視覚・聴覚が劣位(苦手)。モノをちゃんと見ない、人の話を聞かない。

そして、それぞれに処方箋があるのだが、「内的対話」には処方箋がない。

ちょ、どの感覚優位なのを知って、どういう学習の仕方が効率的なのかを知りましょうってな話だったのに、内的対話には処方箋がないって・・・。

身もフタもない話だが、個人的には合点がいく。

昔から、私は人の言うことや本に書いてあることはまったく鵜呑みにせず、自分の中で「これだっ!」と思ったことしか覚えられないからだ。

ま、こういうタイプの人が大成すれば、アーティストになったりするんだろな。

大成しなかったけど。

本当に宗教に寛容な国にあるもの

日本は宗教に寛容とか言う世迷いごとが騒がれている。

個人的には、もちろん日本が宗教に寛容などとは思っていなくて、むしろ狭量であると思っている。

以前別のブログでも取り上げたが、とあるQAサイトに、若い母親が「義母が娘に宗教行為を強要するので困っている」と質問した事件があった。(発言小町ではない)

内容はというと、おじいちゃんの仏壇に、毎朝毎晩、手を合わせること。この母親本人はクリスチャンとのことだった。

この一時を見てみても、とても宗教に寛容とは思えない。仏壇に手を合わせるという、宗教というよりむしろ慣習的な行為すら否定するようなこの国の人間がいるのだ。どこが宗教に寛容なのだろう?

本で読んだ話で恐縮だが、こんな話がある。

イスラム教徒は豚を食べない。(不浄の動物だから)

豚を調理した調理器具は永久に「不浄の調理器具」となり、それで調理されたものも「不浄の食べ物」となるので、豚を料理する厨房で作られたものは豚以外のものも食べられない。

ヒンズー教徒は牛を食べない。(神の使いだから)

インドにはイスラム教徒・ヒンズー教徒が共存している。

そして、レストランには2つの厨房があり、1つはイスラム教徒用、1つはヒンズー教徒用として使われている。

イスラム教徒とヒンズー教徒は、お互いに食べられないものを食べながら、楽しく談笑している。 

これが真の宗教的寛容ではあるまいか。

日本人は、この話を聞いたときに「非常識だ、おかしい」と思うはずだ。

たとえば、眼前で人肉を食べている人と楽しく談笑できるだろうか?

イスラム教徒は、人肉と豚肉のどちらかを食え!と言われると、やむを得ず人肉を食うという。

なのに、眼前で豚肉を食うことなど許容できるのか!?

 

と考えるのはしごく日本人的な考え方であり、宗教というのは普通は(世界的には)ものすごく「個人的なもの」なのである。

豚を食うな、と神に言われたら、自分は豚を食べない。それが真の宗教である。

自分が豚を食べないから、ひとつ君も、豚を食べないでおこうじゃないか?と言ってきたイスラム教徒を私は知らない。

 

クジラ・イルカを食うなというアメリカ人なら知っているが。

押し付けがましいことを「寛容」とは言わないのだ。